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松江地方裁判所 昭和42年(わ)35号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一本件公訴事実について。

本件公訴事実の要旨は、「被告人は昭和四二年四月一五日施行の島根県知事選挙並びに同県議会議員選挙に際し立候補した県知事候補者宮田安義、松江選挙区県議会議員候補者長谷川仁の各選挙運動者であるが、(一)右宮田安義に投票を得しめる目的をもつて同月一四日頃選挙人である松江市上乃木町二、六一五の五井戸智恵ほか二名を戸々に訪問し、同候補者のため投票を依頼し、(二)右長谷川仁に投票を得しめる目的をもつて同月一三日頃から同月一四日頃までの間前記選挙区の選挙人である同市同町二、〇八三梶修三ほか四名を戸々に訪問し、同候補者のため投票を依頼し、もつて戸別訪問をしたものである。」というのである。

審理の結果、右事実は、〈各証拠〉によつてこれを認めることができる。

二公訴権濫用の主張について。

被告人および弁護人らは、「本件起訴は公訴権を濫用してなされたものであるから刑事訴訟法三三八条四号により公訴棄却の判決を求める。」と主張する。

右主張に対する当裁判所の判断は次のとおりである。

(一)  弁護人らは、戸別訪問事件では通常一〇戸以上の訪問でなければ起訴しないのに、本件ではその起訴基準を著しく逸脱して実質的に僅か七戸の訪問で起訴したという。しかしそのような起訴基準があることをうかがわせる何らの証拠もない。のみならず、仮に一〇戸の訪問をもつて一応の起訴基準を考えることができるとしても、本件では実質的に七戸を訪問した事実が認められるのであるから、その起訴基準に照らしても著しくは逸脱していないということができる。

(二)  また弁護人らは、本件起訴は被告人が島根県商工事業協同組合の理事であり、投票を依頼した候補者が日本共産党員であることを主な理由になされたもので、政治的な党派による差別をしたという。たしかに弁護人側申請の証人川上恒彦、同松浦賀重の各証言によれば被告人および投票を依頼した候補者がそのような立場にある事実が認められる。さらに右の各証言中には本件起訴が政治的党派による差別をしたという弁護人らの主張に副う供述部分もあるが、右供述部分はこれだけをもつて直ちにそのような差別をしたのではないかとの疑いをもたせる程の説得性に欠ける。

(三)  したがつて弁護人ら主張のような公訴権濫用の理論を認めことができるとしても、本件では公訴権の濫用ではないかとの疑いを入れるまでには至らないので、本件起訴は適法であるということができる。

よつて本件について公訴権の濫用であるから公訴棄却の判決を求めるという弁護人らの主張は採用することができない。

三憲法違反の主張について。

弁護人は、「公職選挙法一三八条一項は憲法二一条に違反し無効の規定であるから無罪の判決を求める。」と主張する。

右主張に対する当裁判所の判断は次のとおりである。

(一)  公職選挙法一三八条一項は、「何人も、選挙に関し、投票を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて戸別訪問をすることができない。」と規定するが、右規定にいう戸別訪問は本来言論をもつて選挙人に対し候補者の政見、その所属する政党の政策等を説明して投票依頼等の選挙運動をすることを意味するものであり、右規定はそのような戸別訪問を全面的に禁止しているものである。

したがつて右規定は選挙運動としての言論の自由を制限することになるが、憲法二一条一項は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定し、言論の自由を基本的人権として保障しているのであるから、戸別訪問の全面的禁止は言論の自由の制限に関する憲法問題である。

(二)  ところで代表民主制をとつているわが憲法の下においては、言論の自由は基本的人権の中でも最も優越的地位をしめるものであるこというまでもない。本件では選挙運動としての言論の自由が問題になつているのであるが、選挙は代表民主制の下において国民が主権者として積極的に政治に参加するための基本的な手段であり、かつ選挙運動においては言論がその最も重要な手段であるから、選挙運動としての言論の自由は特に最大限に保障されなければならないものである。最もその自由といえども絶対無制限のものではなく、他の基本的人権と関連する限りにおいて制限することが許される場合があることはこれを認めざるを得ないであろう。しかしその自由が特に最大限に保障されなければならない反面として、その制限は選挙の自由と公正を確保するうえに必要最小限度のものに限つて許されるといわなければならない。

(三)  本件では戸別訪問の全面的禁止が問題になつているので、以下検討する。

(イ)  それには先ず、戸別訪問というものはこれを自由に許せば如何なる弊害を生ずるというのかが問題である。

その弊害としては一般に説明されているように、「(1)選挙人の居宅その他一般公衆の目のとどかない場所で選挙人と直接対面して行なわれる投票依頼等の行為は買収等不正行為の温床となり易い。(2)選挙人にとつて居宅や勤務先に頻繁に訪問を受けることは家事その他業務の妨害となり私生活の平穏を害される。(3)候補者側も戸別訪問が放任されれば訪問回数を競うことになつてその煩に耐えられない。」というほかないであろう。

(ロ)  次にそれでは、右にいう弊害は戸別訪問の自由に優越する程の重大な弊害といえるかが問題である。

戸別訪問は候補者、選挙運動者が選挙人の生活の場に出向いて候補者の政見等を説明し投票依頼等をすることであるから、候補者、選挙運動者にとつては選挙運動の方法として極めて自然なものである。

また、選挙人にとつても彼等が戸別訪問してくれることは直接彼等と対話できることであるから、候補者の政見等をじつくりと聞くのにも最も効果的な方法である。したがつて戸別訪問は選挙運動の方法として他の方法をもつて代替し得ない程の積極的意義をもつとみてよいであろう。

戸別訪問がこのような積極的意義をもつことを考えると、「選挙人が私生活の平穏を害される」ということは、そのようなことがあれば逆に候補者に対する支持を失わせることになるであろうから、そのような事態が大きく続くことは考えられず、したがつて右にいう重大な弊害ということはできない。また、「候補者側もその煩に耐えられない」ということも、それは自己のために進んで戸別訪問してくれる選挙運動者、支持者をもつことができないような候補者にだけ特有の煩わしさにすぎないであろうから、右にいう重大な弊害ということはできない。しかし、「買収等不正行為の温床になり易い」ということは、それが選挙人の投票の自由意思を制約し選挙の自由と公正をも阻害することになるところからみて、右にいう重大な弊害ということができる。

(ハ)  そこで次に、戸別訪問と右にいう重大な弊害である買収等不正行為との間には如何なる程度の関連があるのかが問題である。

戸別訪問が買収等不正行為と性質上の因果関係を有するものでないことはいうまでもない。単に戸別訪問の機会に買収等不正行為が随伴することがあるというにすぎない訳であるが、それも必然的に随伴しているといえないこと明らかであるから、問題は比較的多くの場合に随伴しているかどうかということであろう。たしかにある候補者、選挙運動者は戸別訪問の機会にこれを買収等不正行為の場として悪用しようとする傾向があるかも知れない。戸別訪問の機会に買収等不正行為がなされている例が裁判上見受けられることはこれを認めざるを得ないであろう。しかし他の候補者、選挙運動者は戸別訪問をその本来の形で、すなわち直接選挙人に対し候補者の政見等を説明して投票依頼等をする場として活用しようとし、また選挙人もそのようなものとして戸別訪問を受けとめようとする傾向があることも否認することはできない。そのような本来の形の戸別訪問が選挙運動の実態において相当になされている例が裁判上見受けられることもこれを認めることができるからである。現に本件における戸別訪問もそのような本来の形ともいうべき戸別訪問であつたことが認められる。事柄の性質上前者の傾向が大きいことを立証するのは困難だとみるのが相当ではなかろうか。本件でも前者の傾向が大きいという立証はなされていない。

そうであるのに、戸別訪問を自由に許せばこれが買収等不正行為の温床になり易いと考え続けることは、わが国における候補者および選挙人一般の政治意識の水準が依然として低く、買収等の誘惑にも相変らず弱いような者がいまだに多いとみていることになるといわざるを得ないであろう。しかしそのようにみることは代表民主制をとつているわが憲法の建前と相いれない物の見方になるのみならず、わが国における教育や新聞雑誌類の普及が進んできている現状に照らしても首肯し難い物の見方である。

当裁判所は戸別訪問が買収等不正行為を比較的多くの場合に随伴しているということはできず、単にある候補者、選挙運動者がその機会を悪用して買収等不正行為をすることがあるにすぎないとみるのが相当であると考える。

(ニ)  以上の諸点に照らせば、その余の点について検討するまでもなく、戸別訪問には(前記のとおり戸別訪問が買収等不正行為を比較的多くの場合に随伴することさえ明らかではないのであるから)言論の自由に対する制限基準として一般に説明されている「明白にして現在の危険」の基準にいう明白な危険、すなわち本件では買収等不正行為を生ずる明白な危険があるということはできない(当裁判所は選挙運動としての言論の自由に対する制限基準としても右基準がやはり最も説得力をもつと考える)。

のみならず、戸別訪問を自由に許した場合とこれを全面的に禁止した場合との各利益を比較衡量してみても(前記のとおり戸別訪問が選挙運動の方法として積極的意義をもつに比し、戸別訪問の全面的禁止が買収等不正行為に対応できるといつても、その買収等不正行為は単にある候補者、選挙運動者が戸別訪問の機会を悪用して行なうことがある程度にすぎないのであるから)前者に比し後者の利益の方が大きいと一概にいうこともできない。

(四)  要するに戸別訪問を全面的に禁止することは選挙運動としての言論の自由を制限することが許される場合にあたるということはできないとみるのが相当である。したがつて当裁判所は公職選挙法一三八条一項は憲法二一条一項に違反し無効の規定であると考える。

四よつて本件は罪とならないときにあたるから刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

(永松昭次郎)

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